山形県

寒河江の街を見守る 「寒河江八幡宮」

岡山から仙台に初めて赴任し、山形県寒河江市の取引先にお邪魔した時、「寒河江」という地名を正しく読むことが出来ませんでした。

「さがえ」と読みます。地名というものは中々難しいですなぁ。

因みに、大阪で「放出」という地名があります。「ほうしゅつ」ではありません。

「はなてん」と言います。

地名というものは、中々どうして、難しいですなぁ。

赴任して1年半が経ち、何度も山形県寒河江市に出入りするうちに、街並みの所々にこんもりとした森に囲まれたエリアがある事に気づきます。

一体何なんだろう?

そこで今回は、「寒河江八幡宮」をご紹介します。

「寒河江八幡宮」の成り立ち

「寒河江八幡宮」は、仙台市内から約2時間、国道48号線を経て、山形県道23号線沿いの小高い丘の上にあります。

正面の鳥居をくぐり、周囲が木々に囲まれた急な階段を登ります。

太い木の幹を見ると、パワーを感じずにはいられません。

階段を登って左に曲がると、また長い階段があり、一歩ずつ登っていき、ようやくたどり着きました。

成り立ちに関しては、HPに下記のように記されていました。

出羽国風土記・古社縁起等に依れば、今の高瀬山(郊外、島地区)近くに血縁・氏族等の大聚落の守護神あり、康平5年(西暦1060年)源頼義・義家奥州平定(前九年の役)の祈願をし、その霊験あらたかに依り寛治7年8月15日(西暦1090年)に八幡宮をお祀りし、神主1人を置き3,000坪を奉納した。

東北の神社は、坂上田村麻呂や源頼義、義家父子の奥州平定の祈願、及び戦勝にまつわる勧請といった事がきっかけで建立されることが多いなと思います。

後に、大江広元文治5年11月(西暦1187年)源頼朝より寒河江荘を賜り最上川西一円の地頭となり、建久2年(西暦1191年)産土神鎌倉鶴ヶ岡八幡宮の御分霊を勧請し、社人4人と田地1,000石を寄進し併せて現在の地に鎮座せしめられた。

大江広元と言えば、鎌倉幕府の政所初代別当。歴史で勉強した記憶が甦ります。鎌倉幕府が開かれる1年前の1191年に現在の場所で鎮座という事は、約830年もの長い歴史があるという事です。

以来400年の間大江城主は、神を敬い民を撫し水利を興し田畑を拓き、祭政一致殖産興業を勧奨し大いに仁政を布き氏子の信仰篤かった。
出羽守最上義光に天正12年(西暦1583年)に亡ぼされたが、義光公も敬神の念篤く文禄年間より黒印を与え、後江戸時代に至り幕府直轄の御朱印となり寒河江本郷17ヶ村と川西総鎮守として歴代尊崇変わる事なく氏子に維持され、神威ますます厳然として現在に至っている。

寒河江の街を長きにわたって見守ってきたという事です。

関連記事>>>街中に佇む巨大な随神門をくぐると、そこは心落ち着く場所 山形・鳥海月山両所宮

寒河江八幡宮の御祭神

寒河江八幡宮の御祭神は、誉田別命(応神天皇)、大山祇神(山の神の総元締)。

因みに八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称えるとともに、仏教文化と、日本固有の神道を習合したものと考えられています。

古くから日本で親しまれてきた信仰の概念という事になりますな。

関連記事>>>時の実力者の厚い庇護を受けた 日本最古の八幡宮 「誉田八幡宮」

参拝してみて

二礼二拝一礼のいつもの礼儀作法で、いつものように、ただただ「感謝の気持ちと、おかげさまの心」をお伝えします。背筋がピンと張り、すがすがしい気持ちになります。

境内を散策すると、「この木が悠仁親王殿下のお印、高野槇です」という立て札を確認。

目を上にあげると、かなりの大きさにびっくりしました。

寒河江の街を見守り続けて約830年。

是非近くに行かれた際には、立ち寄りをおススメします。

関連記事>>>神社の参拝時のマナーや意味とは?